掌篇小説 『肉体の悪魔』
『肉体の悪魔』
比留間千稲
小三のヒロミにはふしぎなことばかりだった。
おとな達は近くにある<高校>をどうして<中学校>というんだろう。海の方には新しい中学校があるのに…。
近所には<女学校>と呼ばれる大きな廃屋もあった。子どもたちは人けのない校庭の桜の木の枝に縄を渡してターザンごっこして遊んでいたが、大人たちのいう<中学校>は旧制時代の男子校のこと、<女学校>が女子校のことだなんて知らなかった。
中学校と呼ばれる高校から自転車の男女が並んで下校してくるのを見送りながら大人たちが、「今日日は男女同権やもんなぁ」と笑い合うのもふしぎな気がした。
男女別学が当り前だった戦前育ちの大人たちにとってそれがひどく新鮮な光景だったことを知ったのもずっとあとのことだ。
数年後、<中学校>と呼ばれた高校にヒロミも入学する。
驚いたのは教室の席が出席簿順に女子と男子真半分に分けられたことだ。
幼稚園以来初めての席順には違和感があったが、島内あちこちにある中学からやってきた同級生たちは新鮮そのもの、刺激的な日々だった。
ある日の下校時、D君がきて文庫本を差し出した。「これ読んでみ」、といったかどうかは憶えていないが朝礼順が近いDとは二、三度口を利いたことはある。
あわてて鞄に仕舞い込み、ヒロミは自転車置き場へ走った。
『肉体の悪魔』と書かれた表紙を見て息が止まった。<肉体>の二字がおぞましく思えて鞄の蓋を閉める。
子どもの頃聞いた「肉体の門」という映画が思い出された。肉体美なんて語も流行っていて、大人たちが意味ありげに使っていた。
Dくんどして?、と困惑する。
兄や姉がいるという彼はそのせいか大人びて見えた。高一にしては恰幅が良く運動も得意のようだった。
帰宅したヒロミは文庫本のことばかり考えた。もちろん、ラディゲという作者の名も知らない。父たちの本棚にもその人のものなどありはしない。
夜ふけにるのを待ってこっそり開いてみた。
-ぼくは多くの非難を受けるだろう。だが、ぼくはどうすればいいのか?戦争の始まる数か月前ぼくが十二歳だったというのは、それは僕のせいかしら?…
主人公が少年らしいのでほっとし、純文学の小説だとすると、と、『若きウェルテルの悩み』を浮かべた。
さて教室では席順のせいか生徒は皆同性としか話さなかった。
だからヒロミもDに礼も感想も伝えられず、彼の真意を糺さないまま日が過ぎた。
二学期になると席は男女混合になったが、男女の距離は遠かった。
フォークダンスで向かい合ったとき踊りながらDが、「うちの姉な、昔あんたのオヤジさんらと付き合いあったそうや」と囁くのを聞いて、ヒロミは胸の奥の氷の溶ける気がした。
家に帰ってたずねると、両親たちがいっときやっていた文芸の会に高校生だったDの姉さんが何回か顔を見せたのだという。
三年生になりクラスメイトの関心は受験に集中しはじめた。
受験の話をきっかけにグループが生まれ、ヒロミも呼ばれて近所の男子の家に行ったりする。
生徒たちは奥の座敷で茶菓子を中に志望校を言い合い、教師の口真似をして笑い合った。
するとDが「ヒロさんのことは中三の時から知っとった」といったのだ。
誰かがオーと冷やかした。
たしかに、ヒロミの入ってたオーケストラ部がDの中学の文化祭に招かれて行ったことがある。曲目はたしかチャイコフスキーの「花のワルツ」だったが、そのとき、『肉体の悪魔』をくれたDがじつは高校入学前から自分を知っていたという事実はヒロミを強く引き寄せた。
二学期の席替えでグループのKが私の前になっていた。女子同士のように冗談を言い合っていたある日、Kが、「土曜の夜下宿にDが遊びに来る」と囁いたのだ。
「私も行きたい」
「いいよ」
当時は晩ご飯の時間が早かった。七時を過ぎると支度にかかった。
風よけのストールを巻きつけ、店のスクーターを走らせた。
Kの下宿は知り合いの家の離れなので何の心配もいらない。
時間通りに着き、番茶を飲みながらDを待つ。
例によってKは教師のミスを持ち出しては軽口を叩いている。
八時を過ぎてもDは現れない。雨戸がガタガタ揺れて海風が強くなった気がする。
連絡しようがないなぁ、とKがつぶやく。高校生が夜分に大家の電話を借りるのは憚られる時代だった。
ジョーク混じりのKの話もまんざらではなかったがヒロミはDに会いたかった。秘密の時間を過ごしたかった…。Kの下宿からバス停までの道を二人きりで歩きたかった。
…スクーターをDに押してもらって自分は脇に彼のノートを挟んで歩く。
時計が九時を知らせてもDは来なかった。
師走近い夜、ヒロミは西風がどんどん強まるのを聴いた。
Kに一杯くわされたのかもしれなかった。
あの日Kは初めからDを誘ってなかったのかもしれない…。
それからの長い歳月、ヒロミは結局その夜のことをDには話さずじまいだった。
(了)
20151025東京錦楓会80周年・「記念号」より転載
比留間千稲
小三のヒロミにはふしぎなことばかりだった。
おとな達は近くにある<高校>をどうして<中学校>というんだろう。海の方には新しい中学校があるのに…。
近所には<女学校>と呼ばれる大きな廃屋もあった。子どもたちは人けのない校庭の桜の木の枝に縄を渡してターザンごっこして遊んでいたが、大人たちのいう<中学校>は旧制時代の男子校のこと、<女学校>が女子校のことだなんて知らなかった。
中学校と呼ばれる高校から自転車の男女が並んで下校してくるのを見送りながら大人たちが、「今日日は男女同権やもんなぁ」と笑い合うのもふしぎな気がした。
男女別学が当り前だった戦前育ちの大人たちにとってそれがひどく新鮮な光景だったことを知ったのもずっとあとのことだ。
数年後、<中学校>と呼ばれた高校にヒロミも入学する。
驚いたのは教室の席が出席簿順に女子と男子真半分に分けられたことだ。
幼稚園以来初めての席順には違和感があったが、島内あちこちにある中学からやってきた同級生たちは新鮮そのもの、刺激的な日々だった。
ある日の下校時、D君がきて文庫本を差し出した。「これ読んでみ」、といったかどうかは憶えていないが朝礼順が近いDとは二、三度口を利いたことはある。
あわてて鞄に仕舞い込み、ヒロミは自転車置き場へ走った。
『肉体の悪魔』と書かれた表紙を見て息が止まった。<肉体>の二字がおぞましく思えて鞄の蓋を閉める。
子どもの頃聞いた「肉体の門」という映画が思い出された。肉体美なんて語も流行っていて、大人たちが意味ありげに使っていた。
Dくんどして?、と困惑する。
兄や姉がいるという彼はそのせいか大人びて見えた。高一にしては恰幅が良く運動も得意のようだった。
帰宅したヒロミは文庫本のことばかり考えた。もちろん、ラディゲという作者の名も知らない。父たちの本棚にもその人のものなどありはしない。
夜ふけにるのを待ってこっそり開いてみた。
-ぼくは多くの非難を受けるだろう。だが、ぼくはどうすればいいのか?戦争の始まる数か月前ぼくが十二歳だったというのは、それは僕のせいかしら?…
主人公が少年らしいのでほっとし、純文学の小説だとすると、と、『若きウェルテルの悩み』を浮かべた。
さて教室では席順のせいか生徒は皆同性としか話さなかった。
だからヒロミもDに礼も感想も伝えられず、彼の真意を糺さないまま日が過ぎた。
二学期になると席は男女混合になったが、男女の距離は遠かった。
フォークダンスで向かい合ったとき踊りながらDが、「うちの姉な、昔あんたのオヤジさんらと付き合いあったそうや」と囁くのを聞いて、ヒロミは胸の奥の氷の溶ける気がした。
家に帰ってたずねると、両親たちがいっときやっていた文芸の会に高校生だったDの姉さんが何回か顔を見せたのだという。
三年生になりクラスメイトの関心は受験に集中しはじめた。
受験の話をきっかけにグループが生まれ、ヒロミも呼ばれて近所の男子の家に行ったりする。
生徒たちは奥の座敷で茶菓子を中に志望校を言い合い、教師の口真似をして笑い合った。
するとDが「ヒロさんのことは中三の時から知っとった」といったのだ。
誰かがオーと冷やかした。
たしかに、ヒロミの入ってたオーケストラ部がDの中学の文化祭に招かれて行ったことがある。曲目はたしかチャイコフスキーの「花のワルツ」だったが、そのとき、『肉体の悪魔』をくれたDがじつは高校入学前から自分を知っていたという事実はヒロミを強く引き寄せた。
二学期の席替えでグループのKが私の前になっていた。女子同士のように冗談を言い合っていたある日、Kが、「土曜の夜下宿にDが遊びに来る」と囁いたのだ。
「私も行きたい」
「いいよ」
当時は晩ご飯の時間が早かった。七時を過ぎると支度にかかった。
風よけのストールを巻きつけ、店のスクーターを走らせた。
Kの下宿は知り合いの家の離れなので何の心配もいらない。
時間通りに着き、番茶を飲みながらDを待つ。
例によってKは教師のミスを持ち出しては軽口を叩いている。
八時を過ぎてもDは現れない。雨戸がガタガタ揺れて海風が強くなった気がする。
連絡しようがないなぁ、とKがつぶやく。高校生が夜分に大家の電話を借りるのは憚られる時代だった。
ジョーク混じりのKの話もまんざらではなかったがヒロミはDに会いたかった。秘密の時間を過ごしたかった…。Kの下宿からバス停までの道を二人きりで歩きたかった。
…スクーターをDに押してもらって自分は脇に彼のノートを挟んで歩く。
時計が九時を知らせてもDは来なかった。
師走近い夜、ヒロミは西風がどんどん強まるのを聴いた。
Kに一杯くわされたのかもしれなかった。
あの日Kは初めからDを誘ってなかったのかもしれない…。
それからの長い歳月、ヒロミは結局その夜のことをDには話さずじまいだった。
(了)
20151025東京錦楓会80周年・「記念号」より転載
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